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僕は仁兵衛。キモヲタと戦う現代の闘士や!よろしくな。
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 「電球の国」という表現については、日本の現状に対する二重の意味を込めている。
そのままの意味と、象徴的な意味とだ。
そのままの意味、つまり日本がいかに電気に溢れた国であるかは、一度でも外国に行ったことのある人ならば、またそうでなくとも、この狭く暑苦しい国で過ごしてきた人ならば、わざわざ説明するまでも無いと思う。一度、真夜中の地表を写した衛星写真を見てみるがいい。ユーラシア大陸の端に、一際輝く島を見つけることが出来る筈である。それらの光は概ね、電気照明の光である。
西洋のオレンジ色、日本の白色。西洋の街では、あの不躾で無味乾燥な、忌々しい蛍光灯の光など滅多に見かけることなど無いという。それに比べて倭が国はどうだろうか?街灯が街の化粧だとすれば、西洋の街が謎を含んだ笑みを零した薄化粧なら、日本の街は配慮のまるで無い厚化粧だ。
僕だって自分の愛する国を、わざわざ外国と比べて卑下したくはない。だが、こと街並みの美意識の洗練さに関しては、その景観といい風格といい、そして先ほど述べた照明の温かみといい、西洋の方が断然進んでいることは車のCMなど例に挙げるまでもなく、常識として日本人皆が抱いている率直な感想では無いだろうか。
日本には素晴らしい伝統文化がある。その伝統文化の背景には、独特でありながら洗練された美意識がある。もちろん、歌舞伎や桃山文化に対する侘び寂びや茶道など、同じ民族が生み出したとは思えないような断絶を感じることはある。だがいずれにせよ、どちらの文化にも信念にも近い美意識があり、それによって洗練されているのである。
その洗練性ときたら、西洋にひけを取らないばかりか、日本の方が断然素晴らしいと思えることすら稀ではない。もちろんこれは自民族に対する贔屓もいくらか含まれているに違いないが、それでも日本人が高い知性と美意識を持った民族であることは確かなのである。
それなのに。
今の現状はどうだろうか?ちんどん屋というのがあったが、まさにそれに近い。パチンコ、お好み焼き、マクドナルドのごてごてした看板、薄っぺらな横文字、こけおどしの高層ビル。これら今の日本を埋め尽くしている醜悪なものども。茶髪。まるで汚い赤犬だ。(続く)
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優先座席ほど現代日本の異常さを端的に象徴しとるもんはあらへん!
あれは逆説的に、「この座席以外は年寄りや妊婦さんのおっても、譲る必要のありません」っちゅう意味と取れてまうし、実際そう取られても文句の言えへんのやから。
そもそもああいう座席の何で出来たかっちゅうと、年寄りや体の弱い人に譲れへん心無い人の多いからや。

僕はああいう連中の、平気な顔して街を歩いて、適当な道徳心を持っとると自負して生活しとると思うと、反吐の出るんや!(`・~・´"#)=3

大体若い人間、少なくとも妊婦さんや老人、けが人よりは体力のあるであろう人間の、電車で椅子に座ろうっちゅう根性の気にくわへん。僕なんか、混んで無くても座らへんこともあるくらいやのに、あいつらは混んどる中でもハイエナのように、自分の座る席の開くんを虎視眈々と狙っとるんや。

恥を知れ!と言いたいわ!
連中は要するに青春時代に未練のある奴らなんや(;´^_^`Aアセアセ
せやから制服という、学園生活の象徴的なアイテムに拘るんやろう。
もちろん全てのそうではないが、殆どはそうや。
ロリコンは生まれ持った特殊性癖と思われがちやが、実際にはそのような人は稀で、単純にある人の人生の時間に空白のあるゆえに、それに固執し続けた結果、自分と社会との間にフェチシズムの架け橋を作りそこねてしまった、一種の病やというんの僕の持論や。
その証拠に、彼らは自分達の固執する以外、特にそれより年上の女に対しては冷淡な態度を装おうとする。「装おうとする」と言ったんは、実際には彼女らと恋愛したいんやけど、自分の病理のそれを阻み、いや、むしろそれを阻もうとすること自体の病理なんや。
実際には彼女らに対して羨望の眼差しで見ることはあるはずやと思う。しかし同時に、ロリコンにとっては、彼女らは自分を愛してくれなかった世代という風に写るとちゃうやろか。
ロリコンは分析されることを嫌う。いや、分析されること自体はむしろ好む。ただ、結論を導き出されることは絶対に避けるし、自分から結論をはっきりと言うことも無い。自分の何故ロリコンかという問いに対しては、曖昧にぼやかすか、「こうこうこういう理由でロリ世代の魅力的やから」というむちゃくちゃな理論を振り回すか、明らかに嘘と分かる理由を挙げるかなどして、答えを出すことから逃げる。
学生時代もてなかったからロリになったんやろ?と誰から見ても明らかなことを言っても、絶対に認めようとしない。まるで、拗ねた子供のよう。つまり、彼らは愛されたいんや。自分に興味を持ってほしいんや。せやけど、それの実現されへんことは自分の一番よく分かっとる。何故なら、彼らは愛されたいと同時に、自分を愛さなかった人間を憎むことを生きがいにしとるから。
もし、自分を愛さなかった人間に心を打ち明け、そしてその結果、「ふられて」しまったら…。
今まで憎み続けた時間の跳ね返り、彼らはつぶれてしまうやろう。

彼らは言う。「女子高生の年代こそ、女は一番美しい」と。しかし実際には、思春期の女というんは肌は荒れるし、太りやすいし、お世辞にも一番美しい時期とは言いがたい。むしろ一番のりのええんは二十台前半やっちゅうことは、女本人も、また女を知っている男も当然のように知っている知識やろう。
彼らかてほんまは知っとるんかもしれん。せやけど、それでも自分らの愛する年代こそ一番魅力的やと自分に言い聞かせる。この自己暗示というんは事実よりもずっと人間を呪縛するらしい。彼らの信念には一見、「一足す一は二」と言ってのけるほどの気軽さと、それを裏付けるだけの本心の備わっとるように見える。
せやけどその裏には、おどろおどろしい屈折した思いのあるんや。

(ここでは女子高生世代に固執するロリコンを挙げたが、別に幼女や中学生小学生に固執する連中でも、ここで述べた理論とほぼ同じことの言える。それらの違いは単に、恋愛したかった時期の相違や、自分を愛してくれなかった年代の娘に固執し続けるか、あるいはそれよりも下の年齢に希望を抱くかの違いによって生まれた程度のもので、基本的には満たされなかった思春期の記憶の、彼らをロリコンたらしめとることは間違いないと思うとる。もちろん、単純に弱者を支配したいという欲望の極端に大きい奴もおるやろうが、それは大抵この病理に侵された人間の層と被ることの多いように思う。)
ヲタクやない!っちゅうんは、本来言われてた、何かを好きで好きでしゃあないような連中=ヲタクという定義に当てはまらないっちゅう意味や。
また、「いわゆるヲタク」とはヲタクと聞いて一般的に連想される、秋葉原とかをたむろってる「気持ち悪い」社会のはぐれもののことや。一言でそれをアニヲタと同一視することはでけへんけど、「萌えヲタ」はほぼここで扱う「いわゆるヲタク」に一致する。

「いわゆるヲタク」の特徴。

・社会的にはぐれもので青春に未練のあり、異性とのふれあいの無い
・ダサい、気持ち悪い
・頭の悪い、それでいて理屈っぽく頑固
・知識の浅く狭い
・あらゆる物に対してこだわりの無い
・幼稚で受動的、人間的魅力に欠ける
・弱者である
・誠意の無い
・独創性の無く想像力の貧困
・自分の哲学や自分の世界を持たず流行に流されやすい
・消費者であり、社会の末端である

それに対して、ヲタクの特徴

・必ずしも社会的にはぐれものではないし、青春や女性経験も必ずしも貧困やない(統計的に見れば非ヲタクの一般人の平均との違いはあるかもしれんけども、それは統計的な意味しか持たず、ヲタクであることへの必然的な関連はない。)
・人よりも求道的故に、一端のめり込めば一般的なお洒落さんよりお洒落なことの多い。ダサい。気持ち悪いとは限らへん。
・頭のええ。理屈っぽいというよりは合理的なことについて語らせると、徹底的に合理性を追求する。それ故融通も利くので、頑固とは限らへん。
・知識の幅は個人差のあるが、好きなことに関しては深い研究精神を持つ
・あらゆるものに対して求道的なタイプと、求道的な範囲の限られる二つのタイプに分けられる。いずれにせよ、少なくとも一つ以上のものに対して求道的である
・幼稚とは限らない。若々しいとはいえるかもしれへん。受動的どころか、これ以上無いほどに徹底的に能動的。何かに夢中な人故、他の人には無い個性のあり、また何かに夢中であるというだけで生命力に溢れ見ていて気持ちのええ
・誰かに頼らずとも生きていける人種
・独創性に溢れ、全身から湧き出る感性の泉は止むことの無い。ある面で子供っぽい発想も出来(幼稚とは違う)、想像力の豊かさは人並み以上
・自分の哲学、世界を持ち、流行に流されることは少ない
・まれに消費者だが同時に創造者であり、人によってはその才能をいかんなく発揮する

秋葉原やアニメという趣味は、「いわゆるヲタク」ども、すなわち自分の趣味・世界・哲学・人生を持てなかった連中の漂流先にすぎない。故に、アニメという趣味とは本来無縁の筈のファッションや外貌、性格や人生経験にまでステレオタイプの発生する。
本当にアニメという手法の可能性や面白さにのめりこんだ人たちと、例えば秋葉原を気持ち悪いファッションで歩いている、受動的で趣味を持たぬ故に消去法的にアニメの世界に逃げた連中とは区別せんとあかん。
今の社会はマスコミに支配されすぎている。

本来あるべき流れとは逆に、マスコミが言葉を作り出し、それを民衆に流行らせる。
例えば草食系男子が急増中だの、韓流だの、
行き送れ女や主婦層を乗せてスポンサーを喜ばせ、そのおこぼれをもらうことが狙いのように見える。

社会に何らかの問題があったとしても、メディアに取り上げられなければ何も出来ない。
メディアが反権力として強すぎる故に、相対的に本来反権力・政府の監視者であるべき草の根の民衆の力が弱くなっている。
メディアが故意に無視してしまえば、無力化されてしまう今の現状は危険だ。

人権擁護法などの言論弾圧法案が入る前に、研究会文化を発足するべきだ。
最終的には地域ごとに実際に集まっての勉強会も行われるような社会になるべきだが、ネットが文化を立ち上げる先陣となるだろう。
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